ベッドから起きて外を見ると雨が降っている。
まいったなぁと思いつつ、用意をして出発。
自走してスタヴロまで向かっている人も。
スタヴロの町へ着き、適当な場所に駐車してロードバイクをセットアップ。
ゴール地点はスタヴロ中心部だが、スタート地点はスタヴロの東にちょっと行った町外れにあるのでそこまで自走していく。
■スタート
スタート地点に到着すると既にたくさんの選手が集まっている。
点呼で番号をチェックされながらスタートラインに並ぶ。スタートは男性からで35歳未満が先にスタート、その後3分後に35歳以上がスタートし、さらに27分後に女性のスタートとなる。
ところがスタート時間を過ぎても始まらない。オフィシャルから、「天候が悪く運営に遅延が生じており、10分後にスタート」というアナウンスが流れる。そこからトイレに立つ人もおり、観客がいるにも関わらずスタート地点横の木陰でタッション※ラッシュが始まる。自分は「10分くらいなら…」と思って、さすがに人目を憚ってそのまま待っていた。(※立ち小便のこと)
10分を経過してもまだ始まらない。まだかまだかと待っていると、「さらに20分後にスタートします。」というアナウンスが流れる。緊張感が漂っていたスタート地点に暗黙のブーイング的雰囲気が広がり、さらに多くの人がタッション行動に走る。さすがに30分も待っていると出すもの出した方がいいように思えてきたので、自分も前にいたレーサーにロードバイクを保持してもらってる間にタッションを済ませる。ちなみに前にいた彼はあどけない顔で、おそらくまだ20代。お母さんとお父さんが傍にまで来て話していた。が、すんごい脚の筋肉であった。
タッションも済ませていよいよ開始。
ピストルの号砲と共に一斉に動き出す。
■開始直後のトラブル
スタートゲートを通って濡れた路面を西へ。スタヴロの町の北側にある道路を通過する。
スタヴロの町は、Côte de StockeuとCôte de la Haute Levéeという2つの有名な峠に挟まれ、「ideal operating base for experienced cyclists」(熟練サイクリストにとって理想的な場所)と称されるほど。
だが、Côte de StockeuとCôte de la Haute Levéeは後半、2回目のループコースに登場。まずは70kmのファーストループを走って戻ってこなければならない。
集団のスピードはそれなりに早く、もちろんではあるがニューヨークで走ってきたレースの集団スピード以上。だが、全く歯が立たないわけではなく、集団についていく。
開始5分、Trois-Pointsに差しかかり、緩やかなアップダウンが続く。小雨もこのスピードでは飛礫(つぶて)のように顔に当たり、ドラフティングしていると、前のロードバイクが跳ね上げる水やら泥もかかってくる。さらに風もそれなりに出ている。
そんな中、降りかかる雨と水飛沫と風で、右目のコンタクトがずれてしまう。
しまった、と思って元に戻そうとするが、どうやら外れてしまったらしく、目の中のどこにもコンタクトが見当たらない…。
一気に血の気が引いて青ざめてくる。
自分の裸眼視力は0.01。はっきり言って使いものにならない。
レースはまだ始まったばかり…。これからまだ100km以上あるレースを、視力を片方失った状態で走れるのか…。
呆然としていると集団からも離されかけ、多少の傾斜などものともしない速いスピードに対して、必死に喰らいついていく。
DNF(リタイア)という3文字も頭に浮かんだが、遠くニューヨークからやってきてそれでは余りにも情けない。
こうなったらもう気合の問題である。行けるところまで行くしかない!
脚が動かなくなるか、視力が無くなるか、意識を失うか…。もう物理的にこれ以上走れないというところまで行こう。少なくとも精神的な理由でDNFはしない!
■集団から離されて…
が、片目の場合、一番きついのは視力の半減ではなく遠近感の喪失である。遠近感が掴めず、ドラフティングでは前のロードバイクと接触しそうになってしまう瞬間もあった。例えば、今これを読んでいる方で、片目を瞑ってみて、その状態で水飛沫を浴びながら高速集団の中でドラフティングしている様を想像してみていただくと、当時の危険な状況をわかっていただけるかと思う。
「何があっても、遠くベルギーまで来て走っている他の選手を巻き込んではいけない!」
そう固く心に誓うが、そうなるとドラフティングもいつもより車間距離を取って後ろに着かざるを得なくなる。とはいえ、タダでさえ速い世界選抜選手たちに対して、ドラフティング効果を半減させた状態で着いていくことは無謀に近く、しばらく頑張っていたものの、Vielsalmを通過して Lierneuxへと続く丘陵地帯で集団から離されてしまう。
しまったと思うが時既に遅し。不幸中の幸いは、同じように集団から離された選手が他にもいたこと。
同じペースだったオーストラリアの選手と即席でトレインを組んで追う。
しばらくしてイタリアとアメリカの選手を吸収して4人でトレインを組む。
■もう1つの集団
ところが、丘陵地帯も終わりに差し掛かり、Lierneuxの町に向かって降りるダウンヒルでやはり遅れてしまう。片目の視力で遠近感を奪われ、雨が降っている中の濡れた路面で始めてのコースを下るには力不足。安全&完走第一で行く以上、どうしてもブレーキングで安全十分領域にまで減速せざるを得ず、他の3人には先に行かせて下る。
と、後ろから大量の車輪の音が!
もう来たか!と思うやいなや、3分後にスタートしていた後発グループの先頭集団が自分をかわしていく。
コーナーが続くダウンヒルで速度域の違う集団に呑み込まれるのはかなりきつい。自分のペースを保つのも難しい中で、邪魔にならぬように、そして接触しないように注意を払いながらダウンヒルを終わり、後発グループの集団の後ろにくっつく。
ところが、元々の集団から離された根本的な原因(力不足や遠近感喪失)は何にも解決しているわけではないので、この集団についていくのも無理があることは自明の理である。
集団の後ろにはシマノカーがサポートについており、時折遅れてシマノカーにも抜かされて、そこから頑張ってシマノカーを抜いてまた集団の後ろに着き…、といったことを繰り返しながら、最早ドラフティング効果はないんじゃないかというような距離感で着いて行く。
■最初の峠と沿道の応援
その後も集団の後ろにしがみつこうとするが、結局また集団から離れた状態となる。今度は前後に他の選手も見当たらず、おそらく最下位ではないものの、全体の様相も不明なまま孤独な旅を続けることになる。
ところどころで、パンクした選手や、それをサポートしているシマノカーなどを見かけるが、応急処置を施された選手は集団に追いつこうとスピードを上げて自分を追い越して行くので、同じペースで組める相手がみつからない。
ときどき誰かの後ろについたり前を牽いたりして2人トレインを組むが、ペースも異なるため長くは続かずに一人旅。
そんなこんなでスタートから42km、最初の峠、L'Ancienne Barrièreに入る。
この峠の頂上で最初の補給ポイントがある。だが、脹脛(ふくらはぎ)に違和感があり、どうやら攣りかけているようである。
これまで何度もセンチュリーライドをこなし、ブルベも走り、ロングアイランド1周480kmも走ったのだが、たった50km弱でこんな状態になるとは…。それだけレースの負荷やストレスがあるのかもしれないし、体はいろんなところでつながっているので、片目で遠近感を無くした影響が脚にもきているのかもしれない…。まだ最初のループも終わってないのに、これはまずいなぁと思いながら、必死にペダルを漕いで峠を上っていく。
と、先にいる沿道の観客が、他の観客とは違った素振りをしていて、自分の番号を見て何か手に持った紙で照らし合わせるように調べている…。
何をチェックしてるのかなぁと思っていると、なんと自分の名前を叫びながら応援してくれるではないか!もちろん日本語の名前なので外国人の発音はたどたどしく、必死で自分を応援してくれているという熱い想いが激しく伝わってくる。
遠くニューヨークから来た日本人を、ベルギー人の観客が一生懸命応援してくれる…。もはや国も人種も関係なく、そこには確かに自転車という文化に繋がれた絆があった。ニューヨークでも時折感じる自転車が繋ぐ絆と同じものを、ここヨーロッパはベルギーでも体験することができた。レース全体から見たら何でもないこの瞬間、「ここまで来てレースに参加した甲斐があった」と感じたのであった。
そんな感動を味わいながら、「Merci!」と応えて峠の残りを上っていく。集団で通過した場合、一人一人名前を呼ぶ時間はないだろうから、千切れてしまったなりの心温まる声援で、はっきり言ってめちゃくちゃ気合い入った。
そこからは脹脛の違和感も忘れて峠を上りきる。補給ポイントでは、左右にボトルウォーター、エナジージェル、パワーバーを差し出すスタッフがおり、それぞれ補給を受け取っていく。ちなみにマラソン(フルマラソンではない)を走ったときに、走りながら水を受け取ったことはあるが、ロードレースで走りながら受け取るのはこれが初めてで、エナジージェルは手で弾いてしまって受け取れきれなかった。
■再び、Trois-Points
Côte de Brumeの急コーナーが続くダウンヒルを安全に下って、再度Trois-Pointsの町へ戻ってくる。
が、二股に分かれたところで、係員の誘導が曖昧で、左へ曲がるのか軽く右へ直進するのかわからず、(あっち?こっち?)と指差しながら手信号でどっちか確認している間に近づいてしまい、ブレーキをかけて停車。「どっち?こっちか!」と確認して直進。
そしてクラシックレースで登場する峠、平均勾配7.6%のCôte de Wanneを上る。脹脛の違和感も騙し騙し、軽いギアでトルクの負担がかからないようにして上っていく。補給食のパワーバーをかじり、無我の境地に達しながらひたすらにペダルを漕ぐ。上りきった後は、Dangerous Descent(危険な下り)と呼ばれるダウンヒルをクリアーしていく。どれだけ危険なコーナーでも、スピードを十分領域にまで減速すればなんのことはない。もちろんそれではスピードを犠牲にしてタイムも遅くなるばかりだが、遠近感がない状態で濡れた路面を下るにはしょうがないと観念して安全第一を貫く。
■スタヴロとCôte de la Haute Levée
スタートから70km地点、やっとスタヴロの町へ帰ってくる。最初のループの終了である。
フィニッシュゲートを通るが、まだゴールではなく、セカンドループ後に通ったときがゴールとなる。
と、観客の中に妻の姿を見つける。メイン集団から大きく離され、遅く登場した自分をずっと待っていてくれたようで頭が下がる。もちろんレース中なので立ち止まって言葉を交わすこともできず、手で合図をして通り過ぎる。
ここから石畳の坂を北上して残り40km弱のセカンドループに入るわけだが、あまりのレースの過酷さにファーストループでロードバイクを降りて棄権する人も。
自分はそのままスタヴロの町を南から北へ突破。
そして眼前に聳えるのがこれまたクラシックレースで登場するCôte de la Haute Levée。「集団を引き裂く飢えた虎、a hungry lion to tear apart the entire pack」(なんのこっちゃ)と大会のコース案内で称されるほどの峠である。
真っ直ぐ高く伸びる道を前にして本当にこの道を直進するのかと思うが、もうここまで来たら進むしかないので、10%を越える勾配で気力の限りペダルを漕ぐ。
長い上りの途中で、自分のチームジャージに書かれたBrooklynを見たアメリカの選手から、「おお!ブルックリンから来たのか!」などと声をかけられる。彼はコロラドから来ているとのこと。ところどころ、他の選手ともすれ違いながらCôte de la Haute Levéeを上り切って下りへ。脹脛はすでに痙攣状態が続いており、筋を伸ばしてストレッチしながら走る。
■Côte de Rosierと第二補給ポイント
次の峠もクラシックレースで登場するCôte de Rosier。両足とも痙攣&疲労困憊状態のまま、ペダルを漕ぎ続ける。
時折、左こめかみに痛みが走る。右目の視力を奪われて左目だけを酷使しすぎたからか、偏頭痛のような状況になってきた。
吸収効率の良いCarbohydrateを混ぜたスペシャルドリンクも底を尽く中、やっとのことで頂上に到着。今回のレースの最高地点である。
コースも81kmを消化し、Côte de Rosierの頂上にある第二補給ポイントでミネラルウォーターのペットボトルをキャッチ。が、今の状態ではとてもではないが乗りながら入れ替えられないので、一度止まってウォーターボトルにミネラルウォーターを入れて出発。Côte de Rosierのダウンヒルを終えて、セカンドループも後半に突入。
そこでスロベニアの選手と協調し、しばらく2人で牽き合う。ところが、三度Trois-Pointsを通過した辺りで両脹脛の痙攣が酷くなり、先へ行ってもらってペースダウン。
■Côte d'Aisomont
そして遂には股関節に違和感が出てきた。
そんな自分を、フランス、オーストラリア、イギリスの選手が3人でトレインを組んで追い抜いて行くが、幸い上りに差し掛かったことでトレインに参加することに成功。そのまま4人のトレイン体制でCôte d'Aisomontのクライミングへ突入していく。
やはり上りには分があるのか、クライミング中はペースがそれぞれずれてトレインがバラバラになったものの、他の選手を追い抜いて上っていく。
そして先ほど見送ったスロベニアの選手にも追いつく。彼もどこか故障しているのか、それとも体重的に自分の相対パワー(watt/kg)に分があるのか、お互い親指を立ててエールを交換しつつ彼も交わして峠を上る。
ところが上っている最中に、ついに太腿が攣り始める。これまで脹脛が攣ることはあっても、太腿のような太い筋肉が攣ることはなかったので初めての経験。さすがに太腿の故障で速度も落ち、頂上に差し掛かったところでまたスロベニアの選手が追いついてくる。
クライミングあればダウンヒルありで、Wanneの村からスタヴロまで、2つのヘアピンカーブを含むダウンヒルに突入。もはや故障が多すぎてダウンヒルは必要以上に減速せざるを得ず、スロベニアの選手にもここで引き離され見えなくなる。
■Côte de Stockeu
パワーバーをかじって少しでも栄養を体に入れながら、スタヴロの町に戻ってきて最後の難関、Côte de Stockeuへ。
勾配が11%以下になることがないという激坂を上る。
脹脛も太腿も攣っていて、ペダルを回すたびに股関節が痛む。スピードを気にする余裕などなく、ただ脚をつかないで上るだけで精一杯である。というか脚をついてしまったら今の自分の状態では再度走り出すことは難しいだろう…。もう体力ではなく気力だけで走ってるような状態である。
と、前を見るとスロベニアの彼が脚をついている。大丈夫かと思っていると、また走り出して先を行っている。自分も必死に最後の峠を上る。Côte de Stockeuは今大会で最も有名な峠だけあって、両脇の沿道には観客が連なって応援をしてくれている。
峠も後半に差し掛かっているときに、女性選手に後ろから一気に抜かれる。30分後にスタートした女子グループの先頭である。
なんとか峠を上り切ってそのまま下りに。ここで女子のトップグループと一緒に下るような状況になり、まさに2010年のツール・ド・フランス第二ステージで集団落車が発生したのと似たような状況(同じ峠の雨で濡れた路面に集団でのダウンヒル)になる。自分はもはや意識が朦朧としていて、ときどきボーっとしながら下っていくときもあり、そのたびに、いかんいかん、気をしっかり持たねばと自分に鞭打って意識を集中するのであった。
Côte de Stockeuのダウンヒルを終えてスタヴロの石畳に戻ってくる。最後の気力を振り絞って石畳の坂を上りフィニッシュゲートを通過。
長い、長い戦いはこうして幕を閉じた。
■レース後…
ゴール後、差し出されたミネラルウォーターを受け取って、ゴールした選手たちで賑わう道路脇に止まって息を整える。
先にゴールしたスロベニアの彼と固い握手を交わしてお互いの健闘を称え合う。
選手用の休憩所でコーラをもらって疲れた体に潤いを与える。
そういえば、妻に聞いたところによると、ゴール付近のバーで、スタヴロのホテルでお世話になったオーナーのアッドがビールを飲みながら観戦していたらしい。やはり、ベルギービール片手にロードレースを観戦というのが、自転車を国技とするベルギー人のたしなみなのかもしれない。
その後、憔悴しきった状態で車に戻って左目のコンタクトを外して眼鏡を装着。やっと両目での視界が戻る。
体の痛みからか、疲れからか、吐き気を催しながらも、早く休みたかったので車でコテージへ。
シャワーを浴びてしばらく休んでから、キャンプ場センターに行って夕食を買う。重いものは入りそうになかったのでボロネーゼのパスタ。
ちなみにキャンプ場といってもかなり規模が大きく、センターには室内プールもある。今回の滞在で無料券をもらえたのだが、時間が合わず行けずじまい。明日も早めにチェックアウト予定なので少し残念である。
体を休めながら今日の写真でもチェックしようと妻にカメラを出してもらおうとするが、なんと見つからない…。
車まで戻ってチェックするが見つからず…。どこかで落としてしまったのかもということだが、失くしたものはしょうがないし怒る気力もないので、そのことは忘れて休むことに。
そして死んだように眠るのであった…。。。
■レース総括
。。。
。。。。。。
ね、ねむれない!!
まだ精神的に興奮状態が解けていないのだろうか、体は倒れこむほど疲れきっているというのに眠れないのである。
目を閉じると、今日のレース中、朦朧とした視界の中で景色が移り変わっていく光景がフラッシュバックする。
しばらくベッドの中で寝ようと頑張るが、まったく眠れる気配がない…。
しょうがないので起きてネットでもする。せっかくなので大会の運営スタッフにデジカメの遺失物が届けられていないかメールで問い合わせておく。
そしてレースリザルトが発表されたので見てみる。
男子487人中399位。
ちなみに、レース自体としては、トラブルもあり結果は散々であったが、納得できる内容であったと思う。
達成感もあれば、充実感も十分すぎるほどあった。
もし開始直後にトラブルがなかったらと思うこともあるし、コースを一回も試走できず、圧倒的に準備不足であったところなどもある。それらが万全であったとしたら、もっと順位は上げれたかもしれない。が、それらも全て含めての結果であり、それが紛れもない現時点での実力であると真摯に受け止めたい。
とはいえ、様々なトラブル・故障を抱えながらも無事に完走できたことだけで、自分的にはある意味成功と言えるレースであったと思う。
というのも、上位を見ると名のある選手ばかり。総合109位の選手は1980年にツアー・オブ・ユーゴスラビアでステージ優勝した元プロ選手。全世界30ヶ国から集まった元プロの大ベテランや、プロチーム所属の選手たちに混じって、かたやレース暦たった6ヶ月にも満たない駆け出しの自分が同じレースを走れただけでも出来過ぎだと思う。
これで終わりじゃない、終わりなどない。
まだ経験したレースはたったの26レース。ランス・アームストロングの著書の中で、「いつからツール・ド・フランスに向けた準備を始めるんですか?」と聞かれたランスが、「前年のツール・ド・フランスが終わった直後からだ」と答えるくだりを思い出す。まあ来年の同大会決勝は開催地が南アフリカということなので、もしFinalの出場権を得ても出ないと思うが、少なくともシーズン終盤の残りのレース、そして来年3月には始まる来シーズンに照準を合わせて鍛錬を怠らないようにしよう。
とりあえずそんな感じで眠気が出るまで起きていて、結局眠りにつけたのは深夜3時過ぎ。
明日の朝から家族旅行再開だというのにまたきつそうであるが、とりあえず不安でいっぱいだったレース日程を全て終え、精神的にやっとバケーション気分に入れるようになったのであった。
まあ、その状態でDNFしなかったというのがさすが。しかし、壮絶な戦いでしたね。他のRacerとのというより、コンディションやトラブルと。今年はBattenでも挑戦しますか?小生は応援に回りますが。
返信削除読んでいて手に汗握りました(;^ω^)
返信削除自分もコンタクト使用者ですんで分かりますが、普通に走るだけでもハード過ぎるのにコンタクト片方だけで走るって物凄いですね。
ホントに落車しなくて良かったです。
お疲れ様でした。
しかし見ず知らずの人が応援してくれるのは凄く励みになりますね( ^ω^ )
私もDNFが頭をかすめましたが、なんとか気合で乗り切れました。
返信削除また(今シーズンもやったように)来シーズンのレースカレンダーを作って、参加レースを検討したいですね。
できれば、どっかで日本に帰って日本のレースにも参加できればなぁと思ってますが。
自分でもよく落車せずに走りきれたなぁと思います。次、隻眼レースをやれと言われてももう勘弁な感じです(笑)
返信削除なんだかんだいって今回のレースで一番感動したのは応援でした。折れそうになった心を最後まで支えられたのはやはり応援の力あればこそだと思います。