自分用にメモしたので口調がいつもと違うけどご勘弁を。
ヤングリタイアではないが、日本の企業に良く見られる長時間労働、滅私奉公型労働は全く自分には合わないわけで、民族自決ではないが、会社に依存するのではなく自分で自分の人生を自決できるようになりたいと思うわけで。
といっても働かないのがいいと言っているわけではなく、人生の優先順位を履き違えてワーカホリック(仕事中毒)になるのがよくないといっております。
要はワークライフバランスの問題で、家庭と仕事、6:4で重要なら、その割合で関心なり時間なり労力なりをさくべきだということです。どちらでも極端はだめなのではと思うわけです。
もしお金が必要なのに働かない夫がいたら、いくら家にいる時間が多かったとしても、それは本当の意味で家庭を顧みていないわけだから、家庭:仕事の割合は0:0なのでしょう。家族を幸せにすることが大事なのであれば資金面も含めてサポートしなきゃだめで、家族といたいことと家族を大事にすることとは別なので、この場合、家族:仕事に加えて自分という項目を加えれば、家族:仕事:自分=0:0:10なんでしょう。
あと稼ぎはいいに越したことはないといっても、そこには限界効用逓減の法則が働きます。
年収3000万の家庭と年収1億の家庭でそこに住む家族にどれだけの違いがでるのか。
1億の家庭は3000万の家庭の人より3倍以上幸せなのか。
これが年収1000万と300万になると、1000万の家庭は300万の家庭より3倍以上幸せということがもしかしたらいえるかもしれません。
おそらく300万の家庭の人は「もっとお金があればいいのに」と思っているでしょうが、3000万の家庭の人は(お金は不自由ないので)お金より別のものに価値を置いているはずです。そして1億円の家庭の人もそういう傾向があると思います。(自分はそんなにお金はないのであくまで予想ですが・・・)
つまり一定レベルまではお金があること=幸せな生活の構図が成り立ちますが、
それらは比例せず、お金が大きくなっていくにつれて、その増額分が生活に及ぼす影響は
少なくなっていくはずです。例えば100億円ある人と、101億円ある人で、日々の食事のメニューに
どれくらい差がでるのか?着てる服にどれくらい差が出るのか?まずそんなに違わないと思います。
これが、貯金0円の人と1億円の人だったら随分違いがでるはずです。同じ1億円の差も
ある程度金持ちになると生活レベルに影響を与えなくなってきます。でも逆に億単位の
家庭では強盗や妬みの不安にさいなまれるかもしれません。
そこにヒロ・ナカジマさんも著書に書かれている「金持ちの壁」があります。
人生を豊かにするためのお金なのに、お金のために人生を使っている人々がいます。
つまり「あればあるほどいい」では、もう必要十分なお金があるのに気づかないまま、
いつまで経っても金を稼ぐための生活を続けなければなりません。
まるで永遠に回り続けるハムスターのようにラットレースをし続けるわけです。
大前研一がどこかの記事で、「日本人は死ぬときが一番貯金がある」といってましたが、
そうならないためには、「いくらあれば十分か」を考える必要があります。
毎月50万円の可処分所得が欲しい人は税率を3割とするならば、50万円 / (1 - 0.3) * 12ヶ月で必要な
年収が求められます。あとは年収857万円の職業に就くか、それを貯蓄・投資で稼げばいいわけです。
例えば2億8566万円が手元にあるなら年利3%の5年定期(当時)に突っ込めばそれだけで
毎月50万円の可処分所得が手に入ります。ただ普通はそんなお金はないので、働いたり貯蓄したり
しながら、その50万円の可処分所得を満たすような生活を実現すればいいわけです。※
それが達成できたのであれば、お金の要求は満たしたので他の重要なことに時間なり人生を注げば
よくて、それが家庭だったり趣味だったり、単に金を稼ぐ手段ではなく生甲斐として仕事を続けてもいいでしょう。
※住む場所を変えれば50万円という生活必要額自体を少なくすることもできるし、
香港では投資税金がかからないので年60,000ドルで済みます。
つまり、必要な不労所得を得ることは、実質的な強制労働制からの自由であり、純粋な職業選択の自由なわけです。
もちろんそこには「就業しない」という選択肢もあります。お金を稼ぐ心配をしなくていいので、ボランティア等に精を
出すのもよければ、オープンソースソフトウェアなどに没頭するのも社会に価値を提供するという点ではよいと思います。
普段は「緊急でないけど重要なもの」には気付きにくいです。例えば死ぬ直前になって「もっと家族と一緒に
話したり、旅行にいく時間をつくればよかった」と思う人はいても、「もっと会議に多く出席してればよかった」
「もっと得意先に電話しておくんだった」と後悔して死ぬ人はいないでしょう。
いつでもいれる家族よりも緊急な仕事を優先する人はいるかもしれませんが、重要度は逆なはずです。
それが日本の(特に大企業の)サラリーマンは仕事を優先する傾向がある。
奥さんが妊娠中なのに朝の7時台に出社して夜中日付がかわってから帰る人が近くにいますが、どうかと思うわけです。
逆に奥さんがそのような労働形態に慣れてしまっていて、「夫は稼いでくれるんだからしょうがない」と思って文句一つ
言わないのであればこの既存の労働システムが生み出した日本社会における癌でしかなく、それらの人々はこの
労働システムによる被害者なのだと思います。
この記事にとても共感しました。ひょっとした事から朝の通勤電車の中でみました。僕もなんちゃってローディーなのと、以前五年半位アメリカで生活していましたので、おっしゃる事よ〜く分かります。それに、僕には子供が三人いて、四人目がもうすぐ誕生予定です。当然7時頃までに毎晩帰宅してチビ達の世話をしています。多分周りには変な奴的に思われているかも知れません。お時間ある時にでも返信頂ければ幸いです。
返信削除大塚さん、コメントありがとうございます。私は今はこちらで随分労働環境もよくなりましたが、以前日本のいわゆる大企業でサラリーマンをしていたときは会社が生活の9割以上になっていた人生でした。寝るために家(しかも社員寮)に帰るようなもので、休日も平日の疲れが残って土曜の昼過ぎまで寝ているような・・・。仕事よりもっと大事なものがあるのに自分が費やしている時間を見ると仕事がほとんどを占めているという矛盾にストレスを感じていたものです。といってもまだ今でもパーセンテージで見れば理想にはほど遠いので日々精進であります。日本社会…と一言では言えないのでしょうが、少なくとも大企業の総合職カルチャーでは、働くために生きているようなところがあり、彼らの常識=世間の非常識のようなところもありますので、周りの雑音に流されず我が道を進みたいものです。
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